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  • 執筆者の写真光輝 渡辺

ビジネスの世界と教育の世界での生成AIとの向き合い方の違いを考える

ビジネスの世界は機能を使いこなし、教育の文脈では基本的な原理を学ぶべき。

ChatGPTへの関心には大きく分けて2つの潮流がある。

一つは、このツールをどう効果的に使いこなすかという関心。

こんなことも、あんなこともできるぞと次々と面白い、効果的な活用法を編み出していく。

一方もう一つは、ChatGPTというツール開発の背景にある生成AI、大言語モデルとは一体何なのか、どんなクセ、特徴があるのか、人間の認知と何がどう異なるのか追究する関心。

ビジネスの世界は圧倒的に前者だ。

どんなプロンプトを、どんなデータを読み込ませれば効率的にデータを生み出すことができるかをひたすら追究していく。

教育の文脈では、おそらく前者と後者の割合は半々か、もうちょい前者の割合が多いかもしれない。

私自身は、前者の「使いこなす」ことへの関心はそれほど多くはない。

それよりも、この生成AIを動かす仕組み、原理と人間の認知との違いに関心がある。そこから、人の学びを引き出すことができるのではないかと考えている。

カメラの例で例えると、カメラの多彩な機能、エフェクトとか連写の性能を十二分に使いこなすことにはそれほどの関心はない。

それよりは、カメラの原理である、シャッタースピード、絞りとか、画角をどうすればよいかを、教育の文脈では学ぶべきだと思っている。

家庭科の先生が面白いことを言っていた。

最近の子は食器も洋服も自分で洗ったことがない。全て機械が全自動でやってしまうからだ。

だから、いざ手洗いするときに、洗浄とすすぎの違いや順番も理解していないし、手順もイメージできない、と。

洗浄やすすぎ、乾燥は、カメラにおけるシャッタースピードや絞りと同じ原理だ。

この原理を理解していないと、結果的に高性能なカメラも、食洗機も洗濯機も十二分に使いこなせない。

ビジネスの世界ならそれでもいいのだろう。

最新のマシンの多彩な機能を「今」使いこなせればいいのだから。

だが、教育の文脈では違う。

最新のマシンの機能をいくらつかいこなせたからと言って、子どもたちが社会に出る頃にはもっと高性能になってるに決まってる。ChatGPTも4から10くらいになってるだろう。

だから、「今」にいくら焦点を当てたとしても、必ず、確実に、そんなスキルは陳腐化して役に立たなくなってしまうのだ。

だからこそ、ICT活用の原理、原則を理解することこそが大切で、それ以外の知識は枝葉末節なものである。

教師は枝葉末節にとらわれるのではなく、ど真ん中の原理原則を子どもたちと一緒に追及していくべきだ。回り回ってそれが将来テクノロジーと共生するときに近道になるからだ。

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