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教育実践をみる視点としての「ふつう」と「自然」のせめぎ合い

教育実践は「ふつう」と「自然」のせめぎ合いの中に立っていると思う。

たとえば、体育で「跳び箱」とか「鉄棒」がある。
これを学ぶことはとっても「ふつう」のことだ。
しかし、実社会、実生活で、あのような奇妙な形をした箱を飛ぶ経験はまずありえない。
あのように鉄の棒が水平に置かれている状況も想像しにくい。
そう考えると、「跳び箱」も「鉄棒」も、とっても「不自然」なものであるともいえる。

実社会、実生活から見て、あり得ないくらい不自然なものではあるが、教育上有効であるのであのような教具が開発されたのだろう。
ちなみに、跳び箱や鉄棒は海外の多くの学校には存在しない。日本にとって「ふつう」のことが、海外でもそうとは言い切れないということも考えておくべきことである。

国語教育にも「不自然」はいくらでもある。
誰が読むのかわからないのに書かされている、読み手不在の作文。
何のために読んでいるのかわからない、文学の「主題」さがしという名の言語ゲーム。
相手の目を見て、はっきりと、大きな口を開けて話しましょう、という、話し手の気持ちとか相手との関係性を無視した話し言葉の指示。
などなど。

もちろん、学校教育そのものにも「不自然」はいくらでもある。
同年齢で集められる学年学級集団。
時間で細切りにされた学習時間。
挙手や一斉テストなどと言った学習ルール
「いつも笑顔で、元気いっぱいのクラス」という学級目標
これらはどれも、ごく「ふつう」の学校教育の一断面だ。
しかし、学校から出た、実社会、実生活の姿とはおよそかけ離れた「不自然」なものではないか。

それらが良い、悪いと言っているのではない。
きっと良い面もあるからこそ受け継がれてきたのだろう。
しかし、人間の学びにとって、それらが自然なものであるかを問い直したいのだ。

私は授業を「ふつう」軸と「自然」軸とでいつも見ている。
「ふつう」の授業として成立しているかどうか、という視点と、
人の思考や行動などにとって「自然」かどうか、という視点だ。

この場合の自然とは、ルソーのように、生まれたままの野生の姿に手を加えず、自然に戻れと言うことではない。鍛え抜かれた職人の腕前が美しく見えるように、思考や身体の流れが理にかなっているというイメージだ。
……この場合の「自然」は「自然体」という言葉で表されるイメージだ。

それに加えて「自然」を、実生活、実社会で使われる能力や活動と、教室での活動がそれほどちぐはぐにかけ離れていないものをイメージしている。
……この場合の「自然」はnatureではなくrealなものといった方が感覚的には近い。

さらに言えば、この「自然」には学ぶ主体である子どもたちと、それに介入する教師である自分自身にとって「自然」なものであるかどうかも不可欠な視点だ。
……この場合の「自然」は「無理がない」というイメージだろうか。



「ふつう」軸と「自然」軸とで授業をとらえると,次のように分けられる。

1、「ふつう」であり、なおかつ「自然」な授業

……王道系の授業。学校教育に適合し、多くの人が目指す、妥当な実践だろう。

2、「ふつう」じゃないんだけど「自然」に立脚した授業
……天才系の授業。学校の枠から外れるかもしれないけど、少数の創造的な天才教育者によってつくられることもある理想的な授業だろう。

3、「ふつう」なんだけど「自然」じゃない授業
……無理矢理な授業。学びをコントロールしすぎて不自然な授業に陥っている失敗な授業。
または、「あたりまえ」を疑うこともせずに盲目的に実践して失敗しているパターン。
熟練した教師がえてして陥りがちな独断的な授業にこれが散見される(ような気がしないでもない)

「ふつう」でもないし「自然」でもない授業
……支離滅裂な授業。チャレンジングな取り組みをやり過ぎて失敗しているパターン。
実習生の授業とか、奇をてらう私の授業のほとんど……

こうして考えてみると、私にとっての理想の授業は「ふつう」よりも、「自然」であることだと気づく。
普段、人と話している生活、本を読む生活、ものを書く生活。はっと驚き、感動したり、じっと悩み、考えたり、目を開かされたりする、人の自然な学ぶ姿。
それらが教室の中で「自然」につながっている学習をこそ、私が目指している理想なのだということに帰着する。

自然から発想する。
生活・社会から発想する。
当たり前から発想する。
そして「ふつう」を疑う。

「自然は従うことによってしか支配できない」という言葉がある。
創造的な教育実践は、「自然」から発想し、「ふつう」のなかで、あるいは「ふつう」を乗り越える実践であるとも言える。

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