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国語教育授業実践開発研究室
のろいの教育論から、いのりの教育論へーあるいは、否定表現から肯定表現の議論へー
たとえば、「……すべきでない」「……はいらない」とだけ、のたまう教育論を仮に「のろい(呪い)の教育論」と名付けてみる。(ワタナベオリジナル造語)
・教師の押しつけは良くない
・一斉授業はすべきでない
・教科書はいらない
・学習指導要領は不要だ
・クラスは解体すべきだ
・部活をやめてしまえ
云々。
そういう「呪いの教育論」はとてもインパクトがあるし、ある種の爽快感があるので、一気に広がりやすい。
しかしこの「呪い」が単なる現状への不満レベルで終わるのなら、ちっとも建設的な議論にはつながっていかない。
(結構、教育実習生にこのタイプが多い。「私、押しつけの授業とかしたくないんですよね」。私「……で? どうしたいの?」と聞きたくなっちゃうタイプ。)
ネガティブ論だけでなく、その先を続けないと、前に進まない。
必要なのは、
「……すべきでない」だけでは不十分で「じゃあこうしたい」という議論で、
「……はいらない」という言い方だけではなくて「ならば、こんなのがあったらいい」という議論。
否定形ではなく、肯定形とか願望で語られる議論。これを仮に「いのりの教育論」と呼んではどうか。
たとえば、
・教師の押しつけは良くない→だけじゃなくて→じゃあ、こういう教え方なら許容できるのではないか
・一斉授業をすべきでない→だけじゃなくて→授業をこうしてみたけどどうだ?
・教科書はいらない→だけじゃなくて→こういうテキストだったら学びやすいよ
・学習指導要領は不要だ→だけじゃなくて→こういうガイドラインが最低限は必要だよね
のように。
のろいの議論を言ってるのは評論家だけで十分。
現場レベルでは、そういうギリギリのところでけっこう踏ん張っているものなのだ。呪いだけでは前に進めない。
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