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「アクティブラーニング」の実践研究が進んでいることを見る指標

また新しい言葉が出てきた。「アクティブラーニング」だ。

※アクティブラーニングとは?
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。(文科省HPより)

ひねくれ者の私は、こういう言葉になるべく引きずられないようにとは思っているんだけれども、「アクティブラーニング」という言葉を使うかどうかはさておき、こうした学習者の活動を中心に置いた学習そのものは大賛成。昔から「畳の上の水練」という言葉だってある。
問題解決学習のような一つの単元レベルの授業から、ディスカッションやディベートなどの一時間の授業レベルの学習方法まで、「アクティブラーニング」という形で「学習方法(授業方法)」をお国から学習指導要領の形で具体的に指示をしてきたのは、実はあまり例がないのではないかという軽い驚きを感じている。


「アクティブラーニング」の実践上の問題は教師のみとりの精度
ただ、本当の問題は、子どもが活発に活動に取り組んだかどうか、そのものではなくて、それをどう教師がみとるかという問題であると思う。
子どもの自由度が高い活動中心の学習は、目的が明確であり、やる内容がはっきりとし、見通しが立つものであれば、子どもはわいわいと活発に活動に取り組んでいく。
そのときに、子どもたちの様子を表面上だけでなく、どう活動の内実をみとっていくかという問題が本当に難しいし、大切な問題であると感じている。(自分もしようとはしているがそれが十分にできてるわけでない)
だから、「アクティブラーニング」の実践が深まっているかどうかは、実はそれをどう実践者(教師)が見とり、語っているかということで。ある程度は判断できるのかもしれない。


「アクティブラーニング」をどう語るかという指標
たとえば、次のような表層的な部分だけを取り上げているレベルがある。
・とても話し合いが盛り上がっている/盛り上がっていない
・子ども同士が助け合っているね/助け合えていない
・学習が意欲的だ/意欲的でない
・子どもが活動している/活動していない
・子どもが参加している/参加していない
・子どもが集中している/集中していない
・子どもが楽しそうだ/楽しそうでない

私の場合、子どもたちの活動を見ても、最初は、このようにざっくりとした印象でしか語れない。
なかなかその奥にある学びを語ることができない。
しかし、話合いや活動の様子などの子どもの姿を丹念に見つめ、学んでいる内実を理解しようとすると、話し合いのバックヤードに目が向くようになる。
(研究授業などで、人の授業を見る場合、私がそのくらいのレベルまで見とれるのはせいぜい2グループ、8人くらいだ。全員の姿を一時間で見とるのは到底無理。)

話し合いや活動の裏で、どのように頭を使っているか、どのようにテキスト(学習材)と対話しているか、沈黙や独りでいることにどのような意味があるか。それらを、たとえば、次のような観点で見るようになってくる。
・話し合い(以後、活動と言い換えてもよい)を通して、それぞれがどんな関わり方をしているのだろうか?それらに傾向はないか。(教える/教えられる、リードする/支えるなど)
・話し合いがどのように学習内容に貢献しているか、それとも話し合うことで学びが阻害されていることはないか
・話し合う前や後の沈黙、「間」にはどのような意味があるか?
・話し合いに参加していないように見える子どもには、この授業がどんな意味を持つのか、どんな学びが成立しているか。
・個人の学びのペースと、グループやクラスの学びのペースは調和しているか。ギャップはないか。
・それぞれの話されることばが、どうつながり、溶け合い、発展していっているか。一人では思いつかない発見や気づきが生まれているか。いわゆる創発や止揚が生まれているか。
・↑それらが子どもの姿勢や目つきなどの身体性に現れているか。(フロー状態になると身を乗り出したり、目が輝いたりする)

「アクティブラーニング」をみる目を鍛えるためには
子どもを見る目が鋭く、センスもある天才的な先生がいる。そういう人には憧れてしまう。が、しかし自分はどちらかというと、そういうのはあまり得意ではない。(実は子どもの名前を覚えるのも苦手。油断するとすぐ忘れてしまうほどだ)
だから、子どもの学びをみる目を意図的に鍛えないと力は付いてこない。
たとえば、話合いを例にとると、グループごとにそれを録音し、談話研究をすると本当にさまざまな学びが生まれていることが分かってくる。面倒だけど一度でもやるとその勘所がつかめてくるかも。
また、他の先生の授業をみるときも、今ではクラス全体をざっと把握することはあきらめて、一グループ、一人に注目して一時間の学びを観察している。
一人の学びが見とれるようになると、それが二人、三人と増えていく。
このように観察する生徒、グループを限定して授業研究をするのは、今の学校の校内研究のスタイル。1時間で観察する子どもの活動グループ(4人編成)があらかじめ複数の先生に割り当てられる。そして事後の協議会では同じグループを観察した先生方でそれぞれの見え方を交流していく。
これまでは、ざっとクラス40人全体を見回し、目立つ子、気になる生徒の、気になった瞬間だけをつまみ食い的に観察をしていた。そして気にならない生徒はスルーしてしまっていた。
しかし、一時間で4人だけを観察し続けることを課されると、気にならなかった平凡な生徒や、何でもない時間の意味を考えなけれない。そこに気づきが生まれる。
生徒たちが変わったきっかけや、それに至るまでの「助走」の準備状態まで、時系列でとらえることができるようになる。これは私にとって大きな発見だった。

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