国語教育授業実践開発研究室
教育実習生は何に悩み、どう成長するか?
※「教師教育メールマガジン」に寄稿したものです。
目次
(1)「どうして……しないの?」
(2)「……はしたくないんです」
(3)「教師が教える時間」から「子どもが学ぶ時間」へ
(4)「全体」と「個」とのジレンマに直面する
(5)子どもから学び、リデザインしていく、二つの指導法
国立大附属学校は毎年たくさんの教育実習生を受け入れます。
お茶大はそれほど多くはないですが、前任校の千葉大附属中では年間で150人近くの学生さんを受け入れることもありました。これを複数の期間(2~3期)に分けて受け入れることになります。
一人の教員が受け持つ実習生は教科によって異なりますが、国語科の場合、千葉大では2~3人×3期間、お茶大では2期間で年間1、2人くらいです。音楽や美術などの一人教科はその3〜4倍の実習生を指導します。また、学級担任であれば、クラスに最大6人くらい実習生が入ることもあります。
実習期間は三週間。その間、多いときは50人くらいの学生さんが校舎内をひしめき合うことになります。
今までの実習生指導の体験から、こういうことは良くあるよな、こうやってみんな悩み、伸びていくんだよな、というあたりをお話したいと思います。
(1)「どうして……しないの?」
実習のスタートは観察期間。授業をひたすら観察していきます。
この観察期間の実習生の反応として、私がとても気になる傾向が「どうして……しないのか」という疑問を実習生がもつことです。
例えば、
「どうして全員が手を上げないのか」
「どうして話し合いで生徒は話さないのか」
「なぜ授業を静かに聞いていられないのか」などなど。
実習生の頭の中では「全員が手を上げるのが当たり前」「話し合いで話すのが当たり前」というフレームができあがっている可能性があります。もともと教師を志望するくらいですから、まじめで優秀な人が多いのかもしれません。
なかには、他の先生の授業を参観して「どうして……しないのだろうか」という批判めいたコメントを実習簿に書く学生さんもいるほどです。
しかし、評論家のような言い方をしていた実習生も、実際に自分が授業をするようになると、そのようなコメントは激減します。
「なぜ手を上げないのか」という問いは、「手を上げるのはどうしてだろう」という問いへ、「なぜ話し合わないのか」という疑問は「話し合えるのはどうしてだろう」へと。また「授業で静かになるのはどんなときだろう」へと、まなざしが変わっていきます。
これは、同じことを言っているようで、大きな認識の変化があると感じられます。
つまり「なぜこうしないのか」という理想から「こうしているのはどうしてだろう」というありのままの現実を捉えるまなざしへと、視点が変化したわけです。
これは、実習生が評論家としてでなく、授業の当事者として育っていく一つのきざしだと思います。
(2)「……はしたくないんです」
私は、実習生にはとにかく授業を楽しんで取り組んで欲しいと思っています。難しい顔をして、つまらない授業をするよりも、実習生にとって一番生き生きとした姿で生徒の前に立って欲しいと思っています。
だから、実習生にとって「やらされる授業」ではなく「やってみたい授業」になるまで、私は指導教官として根気強く教材研究をフォローするようにしています。そして実習生と一緒になって授業づくりを楽しむことにしています。
実習生とこんなやりとりがありました。
「私は、教師が一方的にしゃべる授業をしたくないんです」
「そうか」
「あと、枠にはめるような授業もいやです」
「ふーん」
「あと、こういうのも好きじゃなくて……」
「わかったわかった。なんとなく思いは伝わった気がするんだけど、『……はしたくない』っていう否定形じゃなくて、今度は『……はしたい』っていう肯定形で、あなたのやりたいことを言い直してみて」
「うーん、それが……」
ギャグみたいなやりとりですが、こういうことは良くあります。
まずは教師である実習生が、自分はこうしたいという明確な思いやイメージを持たないと、少なくとも持とうとしないと、授業をつくるスタートにさえ立てません。
「こういう授業はしたくない」という否定形から「こんな授業をしたい」という肯定形へと変えていくために、指導教官の私は、根気強く実習生の思いを引き出していくことになります。
(3)「教師が教える時間」から「子どもが学ぶ時間」へ
一週間の試運転を経て、いよいよ実習生の授業が始まります。
最初の授業はとにかく「かちかち」です。
いろいろな意味で「かたい」です。
・まず、表情が硬い。
・次に、授業の展開がかたい。臨機応変にいかない。
・そして、扱う内容がかたい。取り上げる内容やエピソードが、生徒の実感などとかけ離れた「教科書的」な感じ。もうちょっと子ども目線があるといいよね、というものになっている。
こんな感じで「かたさ」が教師の身体全身に、授業全部にみなぎっているのが最初の授業です。
授業の熟達とは、ひょっとしたらこの「かたさ」から、学習者に柔軟に変化させていくことのできる「やわらかさ」へと至るプロセスであるというのは言い過ぎでしょうか。
「かたさ」と、もう一つの傾向は、とにかく詰め込みすぎるというものがあります。あれもこれも教えたい内容を詰め込みすぎて、実際に授業をしたらその半分も進まないという事態が起こります。
実習生曰く、これは「間が持たないんですよね」ということ。
教師が発問をしたら、すぐに答えてくれないと不安で仕方がない。
あっという間に準備した内容が終わってしまって、授業の時間が余ったらえらいことだ。そう思って、とにかく生徒を置き去りにして、詰め込むだけ詰め込んで、ぱっぱと進めようとします。
教師が指示や発問をする。そのあとで、生徒一人一人の考えている姿をじっくりと見回すだけの「間」をつくる。そのような、教師の一方的なペースから、学習者のペースへと寄り添うことができるようになれば、やっと授業が「教師が教える時間」から「子どもが学ぶ時間」へと動き出すようになります。
(4)「全体」と「個」とのジレンマに直面する
やっと授業で「見る」「待つ」ことができるようになってきた実習生が次に直面するジレンマが「全体」と「個」への対応についてです。
たとえば、実習生が授業である作業を指示しました。
実習生は、指示を出したらすぐに、一番作業に手間取りそうな生徒のところに行き、手取り足取り個別指導を始めました。
しかし、他を見ると、そもそも作業の指示がうまく伝わっていなくて、何をやったらいいか分からない生徒がいます。
能力が高く、さっさと作業が終わってしまった生徒もいます。
しかし、実習生は、手間取りそうな生徒に、ずっとつきっきりで指導をしているので、他の様子が目に入りません。つまり、他の生徒は置き去りにしてしまっています。
実習生がよかれと思ってとった行動も、他の生徒にとっては適切な支援とはなっていなかったのです。
学校の授業は家庭教師とは違います。必ず「全体」への指導と、「個」への指導とのジレンマに直面することになります。
どうしても「個」に目が向きがちなのですが、そのときも常に「全体」が目に入っていなければいけません。そして「全体」へのバランスの中で「個」への支援をしていくことが必要になります。
と、こうして口で言うのはとても簡単なことなんですが、これは実習生だからという問題ではなくて、私たち教師が必ず直面する授業の難しさでもあると思います。
(5)子どもから学び、リデザインしていく、二つの指導法
最近、なんとなく実習生指導の勘所がわかるようになってきました。
それはひと言で言うと、実習期間を通して、「子どもから学んで作り変えていく」ことを実習生が学ぶようにすればいいんじゃないかということです。
たった三週間の実習期間でも、そのなかでの「教師の成長」「授業の進歩」というのはあります。
それを最大化する秘訣は「リデザイン(再設計する)」にあるのではないかというのが現時点での私の見解です。
教材研究をきっちり、みっちりやることは、そもそもできるものではありません。完璧に「完成」した授業案を子どもの前で展開しようとするのではなく、授業を常に「未完成」な開かれたものとして、子どもの姿を見ながら、何度も何度も授業を作り直していくようにしていくのです。
そういう「子どもの反応から学んで作り変えていく(リデザインする)」を最大化させる実習生指導の方法としてうまくいったなあと感じているのが「A デュアル型指導法」と「B 振り出しに戻る法」です。(と偉そうにいっていますが、オリジナリティーを主張するようなものでは全くありませんので、どんどん他校でも使ってください)
A デュアル型指導法
2人の実習生を受け持ったときのやりかたです。
お互いに自分がつくった指導案をシェアし合うという方法です。
次のようなやり方です。
・受け持つのは4クラス。これを2人で2クラスずつ分担する。
・授業では二つの教材(例、小説)を扱うが、取り上げる指導事項は同じものとする。(例えば「登場人物の人物像を読み取る」という共通の指導事項について、二つの教材で別々の授業をつくるというようなイメージです)
・実習生は、二つの教材のうちどちらかの指導案を書く。
・まずは、自分がつくった授業案で授業をする。そのあと、他の実習生がつくった指導案で授業をする。
・その間、授業での子どもの反応をしっかりと観察し、その反省点を次の授業に生かすようにお互いにアドバイスし合う。
このやり方で実習をすると、次のような気づきが得られます。
・共通の指導事項を、別の人が、別の教材、指導法で授業をすることから生まれる気づき。
・自分がつくった授業を、他の人が授業している様子を見て、それに対してアドバイスすることから生まれる気づき。
・自分がつくった授業を、他の人が授業して、ふりかえるのを聞いて、さらにそこから生まれる気づき。
などなど。
そういう何重、何層もの気づきが生まれやすくなるのが、この「デュアル型指導法」です。
この実習生指導の発想は、うちの学年で、道徳の指導案を学年スタッフが共同で分担して作成し、シェアしているところから生まれたものです。
確かに、自分がつくった指導案、自分がやった授業を他の人が授業するのを見るのは、また、他の人がやった授業を自分でもやってみるのは、色々な意味で、かなり強烈な体験となります。
「こんなやり方があったのか」という反面、「自分だったらこうする」という気持ちがせめぎ合います。
そもそも、どんな授業も、まねしようにもまねできるものではありません。子どもの反応も、同じ指導案であっても、教える教師が違えば全く別物のように異なります。
そこから、自然と「私は、授業をこうアレンジしたい」という自律的な「リデザイン(再設計)」の発想が生まれます。そういう授業には「この人にしかできない授業」という、その人らしい「味わい」も出てきます。
これは、複数の実習生を受け持つことのできる附属学校ならではの実習生指導の方法かもしれませんが、教育実習でなくても校内研究でも一般的に行うことのできる方法だと思います。
B 振り出しに戻る法
もう一つの方法は「振り出しに戻る法」です。(ネーミングはかなりいい加減)
これは一人の実習生を受け持ったときにとった方法です。
4クラスのうち、まず2クラスを最後までやってしまう。そのあと、残りの2クラスの授業を「振り出しに戻って」スタートさせるという方式です。
この方法のキモは、ゴールのイメージを持った上で同じ内容を別クラスで繰り返していき、試行錯誤のサイクルを回していくというものです。
当然のことながら、最初にやった2クラスとは見違えるくらいに授業を向上させることができます。(最初のクラスにはごめんなさいですが、それはちゃんと私がフォローします。)
繰り返して行うことで「次はこうしてみよう」という意識が生まれて、どんどん改善していくのです。
なぜ改善したか、これは言うまでもなく、子どもの姿、反応を見て、実習生自身が授業をリデザイン(再設計)したからに他なりません。
「指導案」を書いたのは最初の一度だけです、しかし、そこから指導案に縛られずに、子どもの反応、学びの様子を見て、もう一度教材に戻って研究をしなおして、授業を更新していこうという気になったのでしょう。
こういう教材再研究、再設計は、実は中学校の教師なら当たり前のようにやっていることでもあります。色々なクラスで、何度も何度も同じ授業を繰り返す中で「やってみたらこうなった、なぜだろう」という問いが生まれ、「こうすれば良いのでは」という仮説を見いだし、「次のクラス、授業ではこうしていこう」と、子どもの姿から学び、授業を組み立て直していくのです。
この「リデザイン(再設計)」は、4クラス連続して授業を行うよりも、ある程度時間をおいて再び実践するほうが、当然準備も密に行えて、うまくいきます。
以上見てきたように、たった三週間、10時間程度の授業実習でも「子どもから学び」、「授業をリデザイン(再設計)していく」ということは体験することができます。
そしてその威力を知ることのできた実習生は、きっと教壇に立ったあとでも、いつまでも、子どもから学び続けることのできる教師になってくれると思います。それこそが、私が教育実習で実習生に学んで欲しいことでもあります。