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​古典学習の究極の目的とは?

古典学習の究極の目的は、「自分にとっての古典を発見する力」を養うこと。
ここでの「古典」は「誰かがオススメする有難いテキスト」というものではない。古典は、長期間にわたる、さまざまな人々の評価をくぐり抜けてきたもの。多くの人が、何かに悩んだ時や、人生の指針を得たいときなどに参照にしてきたテキストだ。つまり、その時代、時代で「自分にとっての古典」として発見され続けてきたものだ。このような、「古典を発見する担い手」の存在があったからこそ、現代までその命脈を保っている。
古典学習は、極言すれば、古典を享受、継承、創造する「自分にとっての古典を発見する力」を養うためにある。ひょっとしたら何年か後でイチローの名言や、プロゲーマーのウメハラダイゴの勝負論も「古典」になっているかもしれない。現時点では全く評価されていない埋もれた昔の作品が「発見」され、「不朽の古典」として再評価されることもあるかもしれない。(バッハの「マタイ受難曲」のように)

古典に触れる経験

そのためには、次のような経験を大切にしたい。
・自分なりの関心やアプローチで古典に触れる経験
・古典と自分や生活、社会とのつながりを考える経験
・日本語のルーツや言葉の響きの美しさを感じる経験
・古典に埋め込まれた時代思潮、文化潮流に触れて、考える経験
・古典に含まれる人生や世界に対する問いかけに応える経験
・「自分にとっての古典」と出会う、または見出す経験

古典教材の特質と価値、教材の作り方

しかし、古典教材には次のような困難がある、と同時に、それを学ぶ価値がある。
A (文体面)言葉遣いの難しさ
B (内容面)時代背景や当時の社会の常識を理解することの難しさ

古典の指導、支援にはA(文体面)に軸足を置く指導とともに、B(内容面)に重点を置く指導のバランスが必要だ。
取り上げる古文テキストには、Aの難易度とBの理解の困難度がどの程度であるかを天秤にかけて、どのような学習活動や支援が有効か、指導計画を立てることとなる。

その意味で、「どんな古典作品を取り上げるか」と同じくらいに「教材文であるテキストをどのように示すか」が、古典教材では最も重要な課題となる。
・原文のみ
・原文と注釈
・原文と一部の言葉の現代語訳、注釈(文末表現、主語など)
・原文と現代語訳
・原文と現代語訳と注釈
・原文と参考資料
などの、さまざまなパターンがあり得る。
もっと言えば、原文、現代語訳、注釈をどのような配置や順序、大きさで示すかなどの細やかな配慮が必要。(「大村はま式テキスト」や、「新潮社古典文学集成」「ビギナーズクラシックス」の紙面構成は参考になる)

​古典を学ぶ様々な活動

もう一つ、そのテキストをどのような形で学習者に出会わせるかという学習デザインの問題もある。
古典と出会う学習活動のパターン
・音読・群読・劇化
・暗唱
・視写
・逐語訳を書いてみる
・アンソロジーを編む
・他のジャンル、文体への書き換え
・書きつぎ
・注釈をつける
・参考資料によって理解を深める
・重ね読み、比べ読み
など。

さらに、中学校という学校段階を踏まえると、次のような点も考慮する必要があるだろう
・小学校、高校での古典学習との接続(どのようなテキストを取り上げるべきか、最低限、どの程度の古文文法の知識を押さえるか)
・中学校3年間での「古文を読む力」の系統的な指導

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