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パネルディスカッション
一人一台端末環境で国語の学びはどう変わるか
~境界の融解と葛藤と~
(2021)日本国語教師の会 欅の会
はじめに テクノロジーは境界の融解と葛藤を引き起こす

GIGAスクール構想により、日本じゅうの教室が一人一台端末環境になる。生徒が常時利用できるタブレット・PCと、常時接続されるネットワーク環境が整備される。その時、ことばの学びはどのような変化を迎えるのだろうか。その大きな潮流の変化として、本稿では「境界の融解と葛藤」というキーワードを示したい。

 


1 「誰が書いたか分からない」〜「自他の境界」の融解と葛藤〜

 

 まず一つ目は「自他の境界」の融解である。一人一台端末環境で取り組まれる学習活動の大きな強みに「ネットワークを活用した全員参加の協同的な学び」が挙げられる。例えば、Jamboardというデジタルホワイトボードやスライドなどに共同で書き込む活動(共同編集)は、一人一台端末環境で頻繁に行われるようになった学習活動の一つである。「走れメロス」を取り上げた授業を紹介する。

【「走れメロス」の魅力を探究する】全6時間 授業の流れ

  1. 全文を通読し、感想を書いて読み合う。難語句を各自で調べる。

  2. 作品の設定や大まかな内容、難語句の意味について確認する。

  3. 「走れメロス」の魅力を引き出す問いを各自で考え、それをグループでJamboardに書き出して検討する。(図1)

  4. 問いに沿って読み深めた内容を、グループでスライドを共同編集してまとめる。(図2) ※スライドには問いを解明する根拠となる本文の叙述と、その解釈を記述する。複数の叙述(スライド)をまとめて、グループ全体の解釈へとつなげていく。

  5. グループで探究した内容を発表して共有する。

  6. 「メロスの魅力について語る」について、個人でまとめる。

​授業で使用したJamboardとスライド


デジタルであれば紙のサイズを気にすることなく、誰もが、同時に、いくらでも書き込みをすることができる。挙手→指名→発表という一斉授業では引き出せない、クラス全員の意見を一挙に表出させ、検討することができるようになる。このJamboardやスライドでの共同編集は、「誰が書いたかわからない」という点に意味がある。「誰が書いたか」ではなく、「どんな言葉が発せられたか」ということそのものに、学習者の意識が焦点化するからである。

 ただし、デメリットもある。どこまでを個の学びとするか捉えることが難しくなる。それはネガティブに捉えれば、他者の成果を横取りする「ただ乗り」(フリーライダー)や、盗用、剽窃などの知的財産侵害の問題にもつながる。協同的な学習のなかで個の能力をどう評価すればよいかという問題も悩ましい。肯定的に捉えれば「個の学び」の境界が曖昧であるからこそ「共同思考」や「集合知」が促され「知の共有」の場と実践になると意味づけることもできる。

2 「教科書を教えなくていいのですか?」〜「教材の境界」の融解と葛藤~

 

 ICTを活用した学びは「教科書・黒板・ノート」というこれまで教室で不動の位置を示してきた教材教具の存在を揺さぶる。一人一台のPCとネット環境が整ったことで、「教科書・黒板・ノート」以外のさまざまなメディア、教材が教室で飛び交っていく。

 例えば、2年生で取り組んだ論語の学習では、教科書やNHK for Schoolの動画で論語の言葉に触れたあとで、その他に、さまざまな論語の名言を各自でインターネットで調べ、「座右の論語」というテーマで個人でスライドにまとめて発表しあった。

また敬語の学習では、グループでレッスン動画を制作する活動に取り組んだ。以下はその授業の流れである。

 

以下がその授業の流れである。

【敬語ワンポイントレッスン動画】全6時間 授業の流れ

  1. 敬語について、教科書や日本語教育のYouTube動画で学ぶ。

  2. グループで敬語を使ったミニドラマの構想を考える​
    (敬語を使う必然性のある人物・場面設定・取り上げたい敬語の誤用)

  3. シナリオを書き上げ、練習する。

  4. ミニドラマを撮影する。音、テロップなどを入れて編集する。

  5. お互いに完成した動画を見合って学ぶ。

「論語」や「敬語」の学習における「教材」とは一体何なのだろう?ICTを活用した学習では、ネット上の様々なメディアが教材になりうる、ウェブサイトの文章、YouTubeやNHK for Schoolなどの動画、子ども自身が撮影した映像なども教材になる。VR(仮想現実)、AR(拡張現実)などもやがて取とり入れられるようになるだろう。それれらのメディアは、生徒が情報を受容すする手段としてだけでなく、学習を表現現する手段としても活用される。文章

だけでなく、音声、画像や映像など、さまざまなメディアを駆使して創作・発信するものとなる。

 演じ、撮影し、効果音やテロップなどをつけて編集する、その活動は、どこまでは国語科の指導事項なのだろうか、教師の意図や学習指導要領を超えて、実際に生徒が学んでいることは何なのだろうか。これらを「国語教育から逸脱している」と切って捨てることは簡単だ。しかし「教科書」や既存の教科の枠組みではカバーしきれない、豊かなことばの学びが広がっているとは考えられないか。

もう一つの問題は、ウェブサイトなどによる学習の問題が挙げられる、論語の授業では、教科書以外にウェブサイトやYouTubeなど様々なメディアが学習材として選択されている。そのとき「教科書を教えなくていいのですか」という問いに対し、どのように説明すればよいのだろうか。教科書と比べ、これらの「教材」の中には信頼性や規範性が低いものがある。教師が事前に「教材研究」できるものだけではなく、生徒がその場その場で検索し、出会うものが教材となっていくことも多い。ICTが駆使される教室では「教材=教科書」という固定的な教材観だけでは対応できない学びが展開されていく。教科書がハブ(中継点)となり、紙メディア、デジタルメディア、そして他者が行き交い、出会っていく学習が生まれる。

3 「なぜ学校に行かないといけないのですか?」〜「教室の境界」の融解と葛藤~

 

コロナ禍はGIGAスクール構想を一気に加速することとなった。つい数年前まではリモートやオンラインなどという言葉は一般的ではなかったが、コロナ禍でリモートやオンライン学習という言葉が一気に普及することとなった。このインパクトはコロナ禍後の授業の変革を迫るものでもある。

 例えば、勤務校ではGoogle Workspace for Educationやロイロノート・スクールやというクラウドのシステムを授業で活用している。このツールは学校外でも全く同じ環境で利用することができる。授業で取り組むワークシートをUSBメモリなどの物理的なデータの持ち出しをすることなしに、そのまま家庭からアクセスして生徒が学習に取り組み、それを教師が指導することができる。

 また、教室にリモートでゲストティーチャーを呼んで授業をする機会も増えてきた。以下は元新聞記者がゲストティーチャーとなり、コロナ禍でのフェイクニュースを取り上げた授業事例である。

 

【デマ・フェイクニュースを捕まえろ!】全8時間 授業の流れ
①    教科書教材「メディアとの上手な付き合い方」を読み、感想をまとめる。
②    テレビ、新聞、インターネットのメディアの特性をグループでスプレッドシートにまとめる。
③    〜⑤ 4人グループで、コロナ禍で噴出したデマについて分析し、ポスターを共同制作する。
⑥    ポスターにまとめた内容について発表し合う。
⑦    個人で「メディアとの付き合い方三ケ条」と解説をまとめる。
⑧    ゲストティーチャーによる特別授業を行う。(オンライン)
 元新聞記者の中西茂氏による「メディアと上手に付き合うために三ケ条」の紹介

 4クラスの生徒の「三ケ条」の講評
 授業者との対話

​授業で作成したポスター例

この授業は、実施しようと思えば、すべてリモートで行うことは可能である。このように、ICTを利用すればするほど「学校」と「学校外」の壁は低くなる。そのときに「なぜオンラインでもできるのに、わざわざ学校に行って学ばないといけないんですか?」という生徒の問いに、我々はどのように答えればよいだろうか。家庭でもできることは何か、オンラインで取り組むことが効果的なものは何か、教室でこそ学ぶべきものは何かということについて、今まで以上に検討していく必要が生まれる。


まとめ 国語教育の再定義へ

 テクノロジーによる教育の変化を捉えるモデルとしてPuentedura(2010)のSAMRモデルが知られている。これはICT導入によって起こる教育の変化の段階をSAMRの四つの頭文字で示したものである。

 導入初期はS(Substitute:代替)である。これは紙プリントをPDFにして配付するような置き換えの変化を指す。それがA(Augmentation:増強)といった、取り扱う情報量が一気に増大する段階へと移行する。さらに、M(Modification:変更)のレベルへと進むと、もはや紙の代わりから、紙には不可能な、デジタルならではの活用へと変更されていく。最終段階はR(Redefinition再定義)である。既存の枠組みの問い直し、再定義を含む転換段階へと移行する。

 本稿で取り上げた「境界の融解と葛藤」として、第一に自他の境界を、第二に教科内容や教材(教育メディア)の境界を、そして第三に学校や教室という空間の境界を取り上げた。他にも見回せば様々な「境界」の存在を取り上げることができるだろう。ICTの導入は、当初は既存の教育手法の置き換えから進んでいくものの、やがては国語教育のあり方そのものを揺さぶり、問い直し、変容、再定義して更新を促す契機となっていく。「いままでの国語の授業が、ICTによってこんなに効率的になった」という程度の、既存の枠組みに縛られた視点しか持っていなければ、こうしたドラスティック(根本的)な変化の潮流を取りこぼすことになるだろう。


 
参考文献
萩中奈穂美編(2021)『「走れメロス」の授業 (対話的な学びで一人一人を育てる中学校国語授業) 』東洋館出版社
Puentedura, (2010) SAMR and TPCK: Intro to advanced practice, http://hippasus.com/resources/sweden2010/SAMR_TPCK_IntroToAdvancedPractice.pdf 2021年7月29日閲覧

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